音楽と本

僕のカルチャーセレクトショップ

夏目漱石 『坊っちゃん』を久々に読む 後編

さて、『坊っちゃん』のメインストーリーである、四国編について。

坊っちゃん (10歳までに読みたい日本名作)

坊っちゃん (10歳までに読みたい日本名作)

 

  数学の教師として四国の田舎の旧制中学校へ赴任した坊ちゃんだが、そこで生徒に好かれるわけでもなく、温泉に行くのに愛用している「赤手ぬぐい」をからかわれたり、宿直の寝床にバッタを放出されたりとむしろ全く折り合いが悪い。江戸っ子が田舎の風習とは折り合わず色々とやり込められてばかりであり、そこに痛快さはほとんどない。 

 実際のところ坊っちゃんはほとんど無力なのだ。しかしその一方で「こんな仕事はすぐにやめてやる」とか「すぐにでも東京に帰ったっていい」という切り札を持っているので、その性格と若さで毎日を過ごしてゆく。これは実際四国に教師として赴任していた漱石の心情だったのだろう。僕もどれほど坊っちゃんのように思い切れたらと思うが、実際はそうはいかない。そこで、自分を坊ちゃんに投影して、わずかの時間でも現実を忘れるのだ。だからこそ文学に価値はある。

 

 そうしてまた坊っちゃんは、そこにいる通俗的な教師たちの学内政治に否応なしに巻き込まれる。その政治の中心にいるのが有名なキャラクター「赤シャツ」である。教頭である彼は、下僕のように従っている野田、通称「たいこもち」と共にいつも行動している。この「赤シャツ」は見事に悪役を体現していて憎たらしいことこの上ない。奸智に非常に長けていて、弁舌巧みに物事を運んでゆく。

 その主な企みは2つあって、ひとつは坊っちゃんの同僚であり、常に自分に楯突く「山嵐」を排除することと、もう一つはやはり同僚である「うらなり君」の婚約者である通称「マドンナ」を自分のものにするということだ。

 どちらの計画も周到に進められ、赤シャツはうらなり君を辺境の学校へと飛ばし、経済的援助を背景に「マドンナ」を自分の伴侶とすることに成功する。一方で、師範学校と受け持ちの生徒たちの喧嘩を止めようとした坊っちゃん山嵐は(これも実は赤シャツの差し金)そのことが新聞の記事となり、山嵐の免職が決定されてしまう。生徒たちの信用は勝ち得たものの、こんなことがあっていいのか、と憤る坊っちゃん。だが正面から赤シャツを糾弾する手立ては全くない。

 

 ただ、坊っちゃんは、うらなり君の送別会の料亭で赤シャツがとある芸者と交わした会話から馴染みの芸者がいることに感づく。憤懣やるかたない山嵐坊っちゃんとともに昼夜を問わずその料亭を張り込み、ついに赤シャツと太鼓持ちがその建物で一晩過ごすことを確認する。実際のところ、その現場を彼等は抑えているわけではない。だからそのあと待ち伏せをしていた二人に対しても赤シャツは「君らはその証拠があるのか」と抗弁する。全くもって正論だ。実際小説内でも物語が坊っちゃんの視点で進むためにその確証はない。しかし、堪忍袋の緒が切れたふたりは赤シャツと太鼓持ちを鉄拳によって制裁し、生卵を頭かでぶちわるという暴挙に出る。

 このクライマックスにおいて読者はこの上ない爽快感を味わう。

 

 そうは言っても先にも述べた通り、坊っちゃんの主観で物語は進むので果たして本当に赤シャツが悪い奴なのかは状況的にしか判断はできない。マドンナの件にしても、彼女の意思は一切出てこないのでひょっとしてマドンナは赤シャツとの結婚を歓迎しているかもしれないと考えることも可能だ。

 坊っちゃん山嵐は赤シャツたちに暴力を振るい意趣返しをするものの、物事の根本的な解決には一つも至らない。きっとこの後、うらなり君は辺境の学校で寂しく一生を終え、赤シャツはマドンナと結婚しやがて中学を牛耳るだろう。

 そう考えると、坊っちゃんはただの厄介者である。

 もちろんこんなのは穿った見方で、素直に勧善懲悪の物語としてこの名作を楽しむ方が正解なのだろうけど、こういういろいろな読み方をできるからこそ後世に語り継がれる名作なのだろう。

 

 最前のドラマでは坊っちゃんがマドンナを説得してうらなり君と結婚するというとんでもない結末を迎える。大衆を対象にしたドラマの作劇上、より観覧者にハッピーな印象を持たせるためのハリウッドご都合主義的改変なのだろうけど、どうしてそういうことするかね。そもそもマドンナに喋らせちゃダメじゃないか。漱石テキスト原理主義者としてはそういう感想を持つことを禁じえないのであります。

 

   ところで『坊っちゃん』はこのようにあっさりと幕を迎える。

 清の事を話すのを忘れていた。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げたまま清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
 その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。

 

 なんとさっぱりした終わり方だろう。死に目に会えなかった実の母親とは違い、坊っちゃんは清の最期をきちんと看取る。ここには本物の親子以上の関係を垣間見ることもできる。坊っちゃんと清の関係性をあれこれ考えるだけでも卒業論文が書けそうだ。書かないけどさ。

 

いやー、文豪の作品は読み応えがありますね

kakuyomu.jp