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「艸木蟲魚」という薄田泣菫のすばらしい随筆を実家で発掘した

 さて、こちらの本、実家に帰った時に発掘した薄田泣菫の『艸木蟲魚』(そうもくちゅうぎょ)という本。

           どうです、しぶいでしょう。定価1円50銭!

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 ちなみに薄田泣菫は「すすきだ きゅうきん」と読みます。大正期・昭和初期にかけて活躍した詩人であり、随筆家。今時どうだろう、文学によほど関心がないと、この人の名前は知らないでしょう。僕自身、この本をいったいいつ買ったのかも忘れてしまったけれども、800円という値段がついていた。

    ちなみに文庫で復刻されています。

艸木虫魚 (岩波文庫)

艸木虫魚 (岩波文庫)

 

 

 僕の持っている本の中でも最古の部類に入るこの本の発行年は昭和18年とある。(初版は1929/昭和4年のはず。でもこの本は15年になっている。おそらく再販本ではないだろうか)。この本は太平洋戦争末期に出版されたのだ。太平洋戦争が激化する直前の出版だ。まだこういう本が出る余裕があったのだろうか。その本が何の縁あってか、僕の手元にやって来た。

          字が小さいけれど、お分かりでしょうか。

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 とりあえず実家から持ち帰りパラパラとめくってみたところいきなりこんな話にでくわした。かいつまんで書くと、

 

 世の中にはそのへんに生えている草を食べる好事家たちがおり、彼らは春になると野原に出でては一列に並んで歩き、これぞと思う雑草を味噌を盛った小皿につけて食べるのだそうだ。その雑草がどんなにまずくてもあとに続く人たちは食さなくてはならない。そうして2~3度先頭のものが失敗すると順番を入れ替えるのだそうだ。中には毒草もあるから、唇が紫色に腫れることもあるのだが、彼らはそんなことはお構いなしに雑草を食し続けるのだそうだ。そうやっているうちに、どれが食えてどれが食えないかが分かるという。

  僕はこの一節がやたらと気に入ったので、最初から読むことにした。 

 どれもが1から4ページの小品で、タイトルは「たうがらし」「蜜柑」「海老」といったものづくしから、「哲人の晩年」「遺愛品」「秋の侘人」「ある日の基督」などの随想的章段までで構成されており様々な自然の事物や書画について、その博覧強記を生かした詩人の、巧みな比喩を交える筆致が縦横無尽に冴え渡っているすばらしい随筆集だ。

 

 それぞれの見出しに関わる随想が載っているのだが「たうがらし」では

 「唐辛は怒ってゐるのだ。」「唐辛はむつとしてゐる」「唐辛は皮肉家だ」

と言った簡潔な表現とともにそのものの持つ性質を実に美しく、的確な言葉を使って表現している。詩人ってすごいなあ。

 この「たうがらし」の最後には、とある下宿屋で唐辛子をつまんで鼠のように歯音を立ててかじりながら孟子を朗読している老人が出てくる。作者がその下宿に住む友人に誰かと尋ねると

 「あれが田中正造だよ。鉱毒事件で名高い・・・」

という返事が返ってくる。田中正造といえば、僕が小学生の時国語の教科書に彼の伝記が載っていたのを覚えている。足尾鉱毒事件の解決のために人生50年を座右の銘に戦い、最後は天皇に直訴をしようとして捕まった程の熱い人物だ。

「私はそれを聞いた瞬間、あの爺さんの激しい癇癪を、唐辛のせゐのやうにも思つたことがあつた。」

と泣菫は記している。

 

 今読んでも大変読み応えのある随筆で、もっと紹介したい気もするけれど飽きるでしょ。先の春の草を食べる人々の話の次に印象深かったのは、「道風の見た雨蛙」という段だ。この段はこの本の最後に据えられていて、サブタイトルに「少年少女のために」と書いてあるから、年少者を意識して書かれたものだろう。随筆というよりは、短編小説である。

 

 友人同士である蝸牛(かたつむり)と雨蛙の会話で主に成り立っているのだけれど、蝸牛は雨蛙が人間と近づきがあることにたいして尊敬の念を持っている。だから雨蛙が小林一茶の俳句に題材として取り上げられたり、柳田将監という笛の名手に歌の稽古をしてもらったとかいう話を聴き、感心しきりである。

 しかし、蝸牛が一番聞きたかったのは小野道風との逸話であった。

 道風といえば大書家であり、三跡として藤原佐理藤原行成と共に称されている人物である。トウフウサリユクナリと昔は覚えた。

 書道の腕前がなかなか上がらない若き小野道風が雨蛙の一生懸命くじけずに葉っぱへ飛び乗ろうと努力する姿を見て、自分も努力せねばいかん!と奮起した話は有名だけれど(花札の柳に小野道風としても知られている)、まさにその蛙が蝸牛と話している本人なのである。

 蝸牛はその雨蛙を手放しで絶賛するのだ。こんな名誉な友人を持つことは幸せだと言わんばかりに。

 ところが、当の雨蛙は別段努力したつもりではなく、ただ「ぶらんこ」をしていただけなのだという。それを聞いた蝸牛は失望し、雨蛙の元を去る。

 しょんぼりとした雨蛙に一部始終を見ていたヒキガエル

「欲のないこせがれめが。一家一族の面目ってことを知りくされねえのか」

 

と悪態をつかれる。しかし雨蛙は

「それは知ってゐる。だが、俺は嘘は言ひたくないのだ。それに買いかぶられるのが何よりも嫌なんだ」

 

ときっぱりと言い放って、話が終わる。

 

 実に示唆に富んだ話で、ぜひ娘にいつか読ませたいと思う。旧仮名遣いで汚い本だけれど、珠玉の価値を持った本でした。

 

表現者としては足元にも及ばないけれど僕も日々書いている。1年前も書いていた。

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