石川啄木といえば、国語の教科書に当然のように載っていたりして、夭折の天才歌人というイメージが強いかもしれない。
ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きに行く
はあまりにも有名だ。
でもなんか去年NHKで放送されたヒストリアとう番組で扱われたせいか、一時期ツイッターとかでそのクズっぷりが話題になったらしい。
同様の天才に野口英世が思い起こされるけれど、どだいそういう人物たちは形而下の出来事に関してはてんで無関心なのかもしれない。まあ、天才でなくてもそういう人はたくさんいるけど。
僕はこの『一握の砂』をどっかの古本屋で買って以来、啄木の歌がなんとなく好きで機会あれば思い出したように読んでわずかばかりの心の安寧を得ている。
昭和45年の35刷版です。当時の定価100円。
1910年に初版が刊行されたこの歌集は、100年以上を経た今でも僕の心に迫ってくる。そこにはかつて神童と呼ばれた作者が日々の生活に追われ、どうにもならない状況から生まれた魂の叫びが込められているからだろう。日常、誰でも共感することができることを、鋭い詩人の観察眼と表現力で三行詩に仕立て上げるその才能。それらを称して「生活短歌」とも言われるが、僕がその言葉を知る前に受けた印象はむしろ「あるある短歌」だった。卑近ですいませんねえ。
でも結構言い得て妙だとも思うんですよ。たとえばこんな歌がある。
どこやらに沢山の人があらそひて
籤(くじ)引くごとし
われも引きたし
タダで何かくれる場所に遭遇すれば、「エッ、エッ?何くれるの?僕も欲しいよ」となるのは庶民のサガである。
有名なやつはこれ。
はたらけど はたらけど
なお わが生活(くらし) 楽にならざり
ぢつと手を見る
(表記は少し変えています)
爆風スランプが初期ので名曲「せたがやたがやせ」で「じっと手を見つめるー」と歌っていたっけ。
かといってそういう歌ばかりではない。二首目に置いてあり、歌集のタイトルにもなった歌がこちら。
頬につたふ
なみだのごはず
一握の砂を示し人を忘れず
僕はこの歌が大好きで、昔作った曲のタイトルにも拝借した。
再生はほとんどされていないので、みなさんが増やしてください。お願いします。ぢっと手を見る。
それにしてもこのサイトの埋め込み、もう少し上手くいかないのかなあ?ボリューム調節どうやるの?あとブラウザによっては再生ができないみたいだし・・・。
そしてしつこいまでにこのブログで宣伝している僕の書いた小説の中にもこの短歌を引用している。
でも一瞬ロマンチックな想像をさせてくれるこの歌も、砂を示した人間はじつは男である説があって、それを知ったとき僕はそりゃないでしょ!と少々がっかりしたものだ。でも解釈は読む人の自由だから、僕はやはり美しい女の人が涙を流して曰くありげにこちらに一握りの砂を差し出している様子を思い浮かべたい。
さて、26歳で死んだこの天才の歌集には死を匂わせる歌がやたらと載っている。しばらくは啄木のダークサイドを堪能下さい。
いたく錆びしピストル出でぬ
砂山の
砂を指もて掘りてありしに
大という字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来(きた)れり
森の奥より銃声聞ゆ
あはれあはれ
自ら死ぬる音のよろしさ
高きより飛びおりるごとき心もて
この一生を
終るすべなきか
こそこその話がやがて高くなり
ピストル鳴りて
人生終る
とまあこんな具合に、少々不穏な内容のばかり。そしてさらに過激な内容のものあるのだ。
一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと
どんよりと
くもれる空を見てゐしに
人を殺したくなりにけるかな
よほど色々なことに行き詰まったに違いない。両親と妻子を養わなければならず、小説を描いたが評価をされない・・・そんな彼の焦燥がこういった形で現れているのだろう。次の歌などゴッホ並みの不気味さを秘めているではないか。
こつこつと空き地に石をきざむ音
耳につき来ぬ
家に入るまで
死にたくてならぬ時あり
はばかりに人目を避けて
怖き顔する
僕だって色々問題抱えてますよ。きっと「うわあ、なるかみさん結構大変なんだねえ」と思われる程の。でも誰だってそうやって頑張って生きているんだし。そしてそれを少しでも救ってくれるのが文学であるし。そうして、僕は今日も啄木の歌にホッとするのだ。最後に自戒の念も込めつつこの歌を。
くだらない小説を書きてよろこべる
男憐れなり
初秋の風